昭和五七年一月十ニ日 朝の御理解


x御理解第二十二節 「天地金乃神と言えば天地一目に覧て居るぞ。神は平等におかげを 授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を充分に受けようと思えば、ま まよと言う心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ」

 昨日、田主丸の小野先生がお届けをされますのに、「家内がこの頃顔が腫れます。内臓のどこか悪い所があるのだと思うのですが」と言うて、昨日大変まあ心配をしてお届けがございましたが、実は私も丁度この正月の元旦の朝から、朝起きると、こう眼が腫れつぶれるくらいに腫れて、今もこう腫れていますけども、もうだから十何日間続いているわけです。
 人間て不思議なもんですね。お医者さんがね、お医者さんですから、お医者さんが奥さんの顔が腫れるというて大変心配をされます、という事を聞いてから、私も顔がこうして腫れるが、という様な事は、まあ申しませんでしたけれども、ちょっと心に、はあそんなに何か、まあ腎臓か何とか言う、で、腫れとるのじゃないだろうかというふうに、小野先生が言うとりました。
 私もどこか悪い所がでけたのかな、とちょっと心に、まあ引っかかった感じでございましたら、神様がすぐz「人間はね、いつも何かちょっと引っかかっとるくらいが信心が進む」という意味の事を頂いたんです。例えばあの、ラムネをこうやって飲む時に、玉が引っかかる事でけとるでしょう、ね、あの引っかかるからこそ、ベェ-ッとハァ-ッとこう入らんです、ね。適当に入る様なもんで、健康の上だけの事じゃないですけども、様々な事柄の中に、まあちょっと気になるとか心配になるとかと、ま、本当におかげを頂いてこうこう、けれども、ま、時々さわざわの時にちょっと気にかかる、と言った様な事も私、今日の御理解で言うと、天地金乃神と申す方は天地を一目に覧て居るぞと仰せられるのです。
 ですから、これは、ほんなら私の身体の事はもう内外共にね、どこにどういう、私、自分自身気がつかんでおっても神様が御承知のはずでございます。どうぞ永う久しゅうね、神様の手にも足にもならせて頂いて、御用にも使うて頂きたいという願いを、又、聞いておって下さる事もそう思いますし信じますから、身体の上に、ま、心にちょっとかかる様な事があっても、神様が御承知の事なのだから、神様の御都合なのだから、と有難く頂いて行けばよいのですけれども心にかかる。
 ま、かかるから神様にね、いよいよ信心をそこから又一段と進めさせて頂くわけですけれども、今度の、あのう福引きに「頂きますという心」というクジでしたから、ハハァやっぱりこれは私自身が、もう私自身はでけておる、どんな事があっても頂きますという心で、もうでけておるものに対する、あれはクジであったなあとこう、又、私と一緒に同じクジを頂かれた人達は、これからその事に精進しなければいけない、というふうに頂いてましたんです。
 確かにそういうなんですよ、皆さんが五十人なら五十人、十人なら十人同じクジを頂いておっても、その人の信心なりで違ってくるんです、ね。上に書いてある番号一つ、ほんなら、でも七と頂く人もありゃ八と頂く人もある、六と頂く人もある。そこからでも、やはり御神意を悟らせてもらうという事が大事なんです、ね。
 その御理解は同じであっても違う、で、私はまっすぐ、まあ私の頂きますという心、もう一切を兎に角頂きますという心ででけておる、とこう思うておったけれども、その、昨日小野先生からあちらの奥さんの顔が、こう腫れられるという事を、大変心配してお届けがあったから、「あら、これは私のも心配せんなんのじゃないのだろうか」という様に、ちょっと心にかかる、という事はまあだ完璧に頂きますという心がないのだという事になるでしょう。
 勿論、私はその、すぐ、その事を頂いてすぐ「本当こりゃ頂きますのだな」とわかりはしましたけれども、やはり神様がいわゆる御承知の世界、神様が下さった、これが病気であるか何かわかりませんけれどもそれであると、ね。おかげを頂く、まあ秘訣として、まあどなたか頂いておられましたですねえ、あの、ままよという心がおかげの秘訣といった様にありました。今日の御理解にも、いうならままよという心が出て来るわけですよね。「受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を充分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばならぬ。ままよとは死んでもままよの事ぞ」ですかね。そういう心の状態になる時に生まれて来るのが安心です。ままよ、そこに生まれて来るのが安心。
 結局、その安心をめざしてお互い信心をさせて頂くわけでありますけれども。昨日、月曜日でしたから、あのう、昨日月曜だったでしょう、ね、あのう、福岡の清松さんという散髪屋さんです。だから月曜が休みですから、月曜たんびんに必ず単車で参ってみえますです。そして今度福引き引かれたのが「実意とは貫く事だ」というクジを頂きまして「どうぞ、私が一週間に一辺こうやって合楽に単車でお参りをするという事は、これはもう私の、いうなら健康の続く限り、いわゆる貫かせて頂いて、実意をそこに表していきたいと思います」という昨日お届けがあったんです、ね。
 ですから私は、そのう例えば、ほんなら頂いておる、頂きますという心というものを、いよいよ徹してね、いうならば自分にでけておる様に思うておってもでけていない、完璧でない。ですから、それを完璧をめざして、いよいよどんな場合であっても、どんな場合であっても「ままよという心」という放任的な考え方ではなくて、今、清松さんが言われる様に、そのクジを頂いて本当に実意を貫きたい、ね、実意ちは貫く事だという頂いて、改めてこの事を、というふうに、その願っておられます様に、私も改めてね、頂きますという心を、もっともっと完璧なものにして行かなければならない。
 そしてギリギリ、例えば心にかかる、だから信心を進める、願うという事にもなる、ね。けれどもその答えは今日の御理解じゃない、ままよという心であります、ね。そのままよという心は、もうそれこそ、ここでは死んでもままよという、という事は安心という事だと思うんでそ。「まあ、どうにかなるさ」といった様な投げやりな事ではなくてね。その、ままよという心がそこにあっての頂きますであり、又、一心を持って頂いておる御教えを行じ切って行く、という、貫かせて頂くという事だと思うんです。いうならば、元旦からこんなに顔が腫れる様になって、十日あまりは、なら、それこそ平気であった。何でもなかった。ところが、昨日そのう、小野先生のお取り次させて頂いて、「あら、これは私も、こげん顔が腫れよるが、そん、お医者さんが心配されよる様な事じゃろか」とちょっとこう思ったら、そこから引っかかりだした。
 けれども、なら神様は、その引っかかる様な事もあってよい、とね。いや、むしろあった方が信心が進んで行くのだ、という意味だと思うんです、ね。だから、お互い引っかかる所を神様に向けてね、いわゆる、あの、まあ神様におすがりもしなければ、信心を進め様ともしない。只、あのう、ままよというのは、こりゃあ、ま、いうならば横着でしょうね。
 ですから横着ではない、実意、実意を持ってその事を頂きます、という心で頂いて行きね、又、それが痛いなら痒いならば、どうぞ、痛い痒いの事もお取り次ぎを頂いてお願いをして行きながら産まれて来るところのお取り次ぎを頂いての事、「天地一目に覧ておる」と言われるのだからね、人間の身体の隅々まで御承覧の神様なのだから、お取り次ぎをしてお願いをしたら、そこにもう安心が産まれて来る。いわゆる頂きますという心が本当のものになってくる、ね。そこから、いうならおかげを受ける受け物が出来て来るのです。神様はおかげを授けるが受け物が悪いとおかげが漏るぞ、と仰せられる、ね。その受け物の完璧な受け物をひとつめざして頂く、という事が、だから信心でもある事でございます。どうぞ。